ピアニスト田崎悦子 エッセイ

ピアニスト田崎悦子

エッセイ

田崎悦子ピアノ大全集 第2夜 プログラムノート

ピアニスト田崎悦子

ピアノに向っている時、私の目線の延長には大地がやわらかい肌を見せ、豊満な肉体を持つ女のようにゆったりと横たわっている。そしてその先には、南アルプスの山々がまだ頂上に雪を乗せ、天をさえぎるかのように雄々しくそびえている。

この大地の色が深く、しめっぽいチョコレート色になり始め、木々の枝の先が少女の乳首のようにポッ、と小さく固く膨らんで来た頃になると、とたんに私の宇宙は春になる。長いこと待ちきれなかったかのようにその小さな木の芽が一ミリ一ミリ萌えはじめたこの季節、もう春を止めることは出来ない。

鳥の群れが一枚の絹のようなフォームをなして素晴らしいスピード感を持って私の視界を横切ってゆく。名もわからない様々な種類の鳥達はそれぞれの音の形、リズム、ピッチ、ハーモニーもテンポも違った音色でさえずり、お互いを呼び合っている。夜の白んでくる頃の彼等の饒舌なこと!限り無く広大なこの空も山も大地も我がものにして自在に飛び回り、夜が明けるのを待ちかねて恋の告白を声高らかにするこの鳥達の存在に最近私は心奪われている。

数年前、ウィーンに生まれ育った私の古い友人が我が家を訪れ、この景色を見た時、自分のふるさとに戻ったようだ、とつぶやいていたのを思い出す。そういえば、ウィーンの森にも沢山の鳥がさえずっていた。 あの「ベートーヴェンガング」と言われる小道をベートーヴェンが歩いたとき、春の小鳥達のさえずりを聞いたにちがいない。又、それは今私がそうであるように、彼の五感を揺す振った事だろう。

自分の作品を聴く事が出来なくなった事もそうだが、この春の小鳥達の声が永遠に想像の中だけでしかあり得なくなってしまった彼の苦悩は私達の想像を絶すると想う。 そしてここから先は私の想像力が一人歩きしてしまうのだが・・・Op.111の二楽章の後半のあの高音で続く静かなさえずりは何だろう。その後の長いトリルを経て曲の最後に到達するまでの、神の世のように美しく、光に満ち、あまりの幸せに静かに涙するような、たとえようもない至福の時は終りを示すのではなく、道しるべが「永遠へ」と記しているような・・・

苦悩に満ちていたはずの彼の人生の中での“幸せ”を音にするとあのようになるのだろうか?反対に、一楽章のただならぬ恐ろしさに私は目眩を覚える。想像のおよびもしないただならぬ物、あるいは事柄。人間としてそれを感じようとする時、ベートーヴェンが彼の持つ想像力の全てを使ってそれを書き表そうとした事が感じられる。

ピカソが言っていた事を思い出す――“もしここに絵の具がなければ私はクレヨンを使って絵を描くだろう。もしクレヨンが無ければ鉛筆を、それもなく、はだかで牢屋にぶちこまれたら、私は自分のつばで壁に絵を描くだろう。”

ハイドンの光輝くこの晩年のソナタにもやはり春の鳥のさえずりがそちこちに散らばり、ある時は夜の白む時のあのざわめきが、ある時は夕暮頃の奇妙に内に秘めた鳴き声が、そしてある時はとてつもなく軽やかに、愉快にかけ上がったり下がったり、悪戯をしているような・・・。

ハイドンがこの曲を書いた丁度その頃、彼を敬拝してやまないベートーヴェンが、同じハ長調の素晴らしくユーモアに富んだOp.2-3のソナタをハイドンにささげていた事を彼は知っていたのだろうか。そしてそれから二年程してシューベルトが同じ街に誕生する。 生涯、貧しい出生を恥じ、作品に関してはまったく自信のないシューベルトは晩年に自らの病をおして、徒歩でアイゼンシュタットにあるハイドンの墓に行ったり、ベートーヴェンの葬式には墓地まで棺をかつぎ、たいまつをかかげる36人の一人に加わった。その翌年の自身の死を知る由もなかった彼・・・。また晩年の気難しいベートーヴェンが若くして晩年のシューベルトを尊敬していた、ということ・・・、それ等は、その時代とその街にジェラシーさえ覚えさせるものがある。

31歳のシューベルト、死の数ヶ月前の最後のピアノ曲となったD.960のソナタに関して何かを書こうとするなら、分かり得ないその時のシューベルトの心理状態を想像したり、作品分析をすることなど、到底出来得ない。ただ、私という一人の人間が自分の視点から感じることだけに触れるしかないと想う。それはやはり、毎日の自然に包まれる中で、ハッとするような光景を見た時――空全体が重く灰色に押しつぶされているのに、ある山頂に柔らかいひとすじの光が天から照らされ、その辺りの山々だけが幾重にもなって墨絵のように浮かび上がる時、又は遠くの、そのまた遠くにかすかな、かみなりの音が聞こえる時、それも決まった間隔でなく、あまりにもかすかで耳も心も全部澄まして聞こうとする時・・・五感のすべてを開けて自然に存在するありとあらゆるものを感じようとすると、そこには光と闇の境もなく、香しさと悪臭と、愛と怒りと、幸せと孤独と、生と死さえもが同居しているように思えてくる。

日頃感じる自分の防御心を一枚でも払いのけて、出来るだけ無防備のままこの不可解な、神秘的な、壊れやすく同時に偉大な自然に抱かれていると同じ気持ちで、この曲に接していたい。

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